生きるということ

今年(2022年)の3月22日、暖かくなってきたはずなのにその日は急に寒くて、テレビやSNSで今日は○時~○時まで節電をよろしくお願いします!みたいな日がありました。ロシア-ウクライナ戦争もあって原油の輸入が滞っていたりしたのかもしれません。

 

自分はその日たまたまお休みで、その日は座椅子に座って、ベッドに寝そべり軽く毛布をかぶりながら小説読んだりしていました。ですがなんとなくツイッターとか気になってしまい、携帯で見てしまいました。

 

SNSはやはり節電に対しての意見はさまざまで、「○○して節電しています」「今日は早く退勤します」など前向きなものもあれば、「NHKや民放のテレビ局が放送をやめればいい」「あの店が営業しなければいい」などの意見もありました。

 

別に節電なんて出来る人がやればいいと思うし、節電していない人を責める気はまったくないのだけれど、でもそうやってTV局とか町のお店の人たちを中傷しているような気がして、それが嫌でした。ついつい僕も次の日ツイッターで「自分を善人だと思っている人ばかりで嫌になる」みたいなツイートをしてしまいました。

 

でも、あれは間違いだったな、そもそも「自分を善人だと思っている人ばかりで嫌」というツイートだけでは読み手に意図を伝えるには文章が短すぎる。それに「善人」ということばを悪者にしたような言い方になってしまった。善人であることはいいことだし、人は自分を善人だと思ったり、善人を目指しているからこそ行動できると思う。

 

「他人を俳諧中傷している人が嫌い」って書くべきでした。ごめんなさい。

 

という懺悔で始まりました。2022年7月18日は僕の31歳の誕生日です。

前回ブログを書いてから早一年経ってしまいました。

せめて1年に1度の誕生日くらいはブログを書こうと思います。何年何十年後に「このときの自分はこんなことを考えていたのだな」と見返す手助けにできたらと思います。

 

今回のブログテーマは「生きるということ」にしました。谷川俊太郎の有名な詩から参考にしています。

 

つい先日2022年7月8日、安部晋三が亡くなりました。詳細は書かずとも有名だと思います。人間死ぬときはあっという間で、突然でした。

その前日には遊戯王の作者の高橋和希が死に、少し前には上島竜平も亡くなっています。過去にも書きましたが僕の誕生日は事故や自殺とも関わりが深い日なので、人が死んでしまうのはやっぱり嫌な気持ちですね。安部元総理の死も、やはり自分の誕生月にそのような事件があると嫌な気持ちになってしまいます。

 

人が死ぬこと、あるいは人が死んだことを知ることに前触れが無いこともありますよね。

 

僕が今まで出会った中で、強く尊敬している方が3人いて、その中の一人が高校時代の男の同級生でした。名前の頭文字からここではKとします。Kとは高校2年から同クラスになり知り合いました。Kは背も180くらいの身長で、顔も声もかっこよくて(GACKTっぽい感じ)でした。高校から離れた町に住んでいるらしく帰宅部でしたが、スポーツも上手でした。見た目もいいからクラスのイケメン数人と談笑していたりしました。彼女もいて、学年でも1・2の綺麗で名のある女性とつきあっていました。

 

ここまで書いているとKはただ単なるパーフェクト人間みたいですが、Kの凄さは人とつるむときとつるまないときのバランスでした。昼休みとかは談笑しているけど、朝や帰りなんかはひとりで帰っていることも多かったし、休み時間も眠いときはでかい体を丸めて机で寝ていて、なんていうか寄せ付けないオーラがありました。

他のエピソードでは、テスト期間に僕が放課後、図書室でわりと遅くまで勉強していて、帰りに教室のロッカーに寄ろうと教室に入ったら、Kとその彼女さんがひとりは窓際、一人は廊下側で、それぞれ間逆の位置で、黙って勉強していました。Kの彼女さんは別クラスなので、2人はおそらく一緒の場で勉強していたと思うのですが、わざと一定の距離を保ち、教室の端と端に座って勉強していたのだと思います。

Kは友達や彼女がいても、一人の様子も多く、なんていうか他人に依存していないように見えました。

 

僕はクラスの大人しめ男子のグループで、Kはイケメングループ(イケメン3人でよくつるんでた印象)でしたが、僕とKの仲は良かったと思います。なんていうか、Kによくいじられていました。例えば授業で資料プリントが配られたときに「○○(僕の名前)プリントちょっと貸してくれ!」って言われて貸して、プリントが戻ってくるとプリントに書かれた人物にめちゃめちゃいたずら書きされていて、「なんだよこれww」って僕がつっこみいれて笑わされたりとかしていました。

 

なんで僕みたいなのにちょっかい出してくるのか不思議でしたが、昔Kが言っていたことがあります。

 

高校2年生の新しいクラスの初日、みんなで自己紹介の時間がありました。出席番号が若い順なので、苗字が「あ」の人から順番に、教台に立って、黒板に名前を書いて自己紹介していきました。すると、みんな名前を黒板の周りから埋めていっていき、真ん中が埋まらないまま、出席番号中盤の僕のところまでやってきました。僕は黒板の真ん中に他の誰よりも大きな字で名前を書きました。たぶん僕は、誰も埋めたがらない場所だからこそ、自分で埋めてしまおうと考えたんだと思います。僕の自己紹介はたぶん普通だったと思います。「○○です。○○町に住んでいます。部活は合唱部です」みたいな感じかな。あ、合唱部はガチです。昔から歌うのが好きでした。

 

それを見たKは僕のことを面白いやつだと思ったそうです。「最初の日の自己紹介で、黒板の真ん中にでかい字で名前書いていて、面白いやつだって思ったわ」そう何かで言ってたのを覚えています。

 

Kとは高校3年生のときも一緒のクラスになり、別にメアドも交換しなかったし、放課後も休日も遊んだりは一切無かったけれど、適度な距離感で、基本別グループだけど時々話すみたいな仲でした。3年秋の終わりごろになると受験も近づき、Kは出席日数を落とさない程度に遅刻したり、2限が終わった頃にきたりしていました。センター試験が近くなるとウチの学校はよっぽど出席やテストの成績が悪くない限り学校来ないで自宅でもokスタンスだったので、受験シーズンはあまり話さなくなりました。でも最終的にKは関東内の国立大学に受かったと聞きました。学校サボってても勉強してるとこではしてるタイプなのかなと思います。

 

卒業式の日、最後のKとのやりとりも覚えています。卒業式も無事に終わり、僕は部活の送別会もあったので部活の友達と階段を上がっていました。そこで階段を下りてくるKと目が合いました。Kは卒業式の後でもいつもと変わらず、ひとりで帰ろうとしているように見えます。Kの整った顔立ちで大きな目と僕の目が合います。

 

「じゃあな」Kが言います

「ああ」僕が答えます

 

Kはそのまま降りてゆき、僕は友達と部活の送迎会に向かいました。

 

短いやりとりだったけどKと僕らしいやりとりだったと思います。

 

社会人になってしばらくなので25くらいの時、駅で同じクラスの友達とたまたまめぐり合いました。友達が言いました。「そういえばKって覚えてる? K、自殺したって聞いたんだけど、知ってる?」「そうなの?いや、知らなかった」僕は答えました。

 

僕はKのメアドも知らないし、実家のある市町村は知ってるけれど住所までは知らないので確かめようがありません。Kはもしかしたら本当にその噂どおりにもうこの世にはいないのかも。でも、ひょっとしたら噂はただの噂で、生きてるのかもしれません。

 

どんなに尊敬したり、憧れている人でも、自分の生活領域から離れてしまえば、その人が生きているのか、死んでいるのかは分からなくなってしまいます。

他人の心は読めません。僕から見てKは精神的に自立しているように見えましたが、本当は悩みもあって、それが大学生活や社会人生活の中で表面化したのかもしれません。

 

生きるよりも辛いことってあると思います。人は何かに悩み、落ち込んで、それは生きていきたくなくなっちゃうくらいしんどくて。

 

どうして僕たちは、友達と定期的に連絡を取り合うのでしょう?どうして好きな人と結婚しようとするの?

 

それは「その人が大切で、その人が死んでしまっていないか確認していたい」そういう気持ちがあるから友達や恋人、伴侶であろうとするのではないかと思います。その人が生きてゆけるように「今の自分にできることをする」ことが大切に思うことにつながっていると思います。

 

谷川俊太郎は詩「生きる」のなかで「生きているということ」という文を多く使用しています。僕は「生きている」だと今、生きていない死者になんとなく申し訳が無い気がして、改変して「生きるということ」と言ってしまいます。

 

詩「生きる」の中の

 

すべての美しいものに出会うということ

 

という文章がすごく好きです。

 

大切な方たちが今日も生きていることを願い、僕自身はこれからも美しいものに出会えるように、強く、優しく、生きたいな。

二十九→三十

題名は先日7月10日に誕生日を迎えた櫻坂48の森田ひかるさんのブログのタイトル「19→20」と、クリープハイプの楽曲「二十九、三十」の題名を参考にさせていただきました。

 

明日7月18日で自分は30歳になります。楽しいことも、辛いこともたくさんあった20代を越えて、30代に今なろうとしています。今回は、自分のことを書く日記です。よろしくお願いします。

 

まず前提として、以下は29歳11ヶ月時点での自分の考えなので、5年後10年後にはまた別の考え方に変わっている可能性があります。また、自分のことって分かってるようで分からなかったり、自分のことだからこそ矛盾が生じるものだと思います。なので、文章を読んでいてよく分からなかったり、矛盾している箇所があるかと思います。よろしくお願いします。

 

では、本文に入ります。

 

自分の人生で一番大切なものってなんだろう

人生において大事なものはたくさんあります。「命」「お金」「住居」「仕事」などの視覚化できるものあれば「家族」「恋人」「自分自身」などの人間関係を指す場合もあり、「プライド」「権力」「自由」など、目に見えないものを指す場合もあります。

その中で「一番」大切なものは何なのか。

「家族」が一番大事だという人もいれば「お金」が一番大事という人もいます。ですが「家族」が一番大事だという人も「お金」も生きていくうえで大事であることは分かっているのではないでしょうか。逆に「お金」が一番大事だという人も「家族」の大事さも知っています。

つまり私たちは「家族」も「お金」も「そのほか」もどちらも大切と分かっているけど、一番はそれぞれ違うのです。

 

前置きが長くなってしまいすみません。

 

自分が一番大事にしているものは「成長」だと思っています。

 

自分のことを書きます。

自分は自尊感情というものがあまりありません。自尊感情とは自分を尊敬する、つまり自分を価値のあるものと認識する感情ですが、昔からあまりありません。

例えば小中学校の委員会の話しをすると。

委員会って人気のあるないで分かれやすくなっていると思います。僕の小学校では保険委員、中学校では音楽委員が不人気でした。保険委員は毎日朝の会で前に立って「○○さん」「○○さん」の点呼をしなければなりませんでした。また、音楽委員もまた毎日朝の会で前に立って指揮を振って校歌や合唱曲を歌う進行役をしなければならず、他の委員会よりも人前に出る頻度が多く、それが人気の無い要因だろうと大人になった今は思います。

僕は基本的に余り物でいいやタイプだったというか、誰もやらないなら自分がやってもいいかなタイプでした。かといって縮こまるタイプでもなく、授業中もある程度手を上げてしまえるくらいの度胸はあったので、委員会決めの時も場の空気を読んで、「じゃあ僕やります」って手を挙げることをしていました。まあ、ドラマみたいに天井を突き刺すようなピンとした手の挙げ方ではなく、ひじも曲がった手の挙げ方でしたけど。

学校の掃除だってそうです。トイレ掃除で全然いいし、教室の掃除のときも「俺は床の雑巾やるから、箒使っていいよ」って箒よりも雑巾のほうが好きでした。好きっていうかそっちでいいかなって感覚でしょうか。

学校以外のエピソードでは、僕はあまり自分の服を自分で選ばない生き方をしていました。母が全て買ってきてたんですね。自分はそれをただなんとなく着ているだけでした。一応断っておくと、母にもたぶん子ども自身に選ばせてるつもりはあったんだろうと思います。洋服店に僕と弟を連れて行ったこともありました。でも子どもの立場からしてみると母親と一緒に洋服選びにきているところを周りの見ず知らずの人たちに見られるのが嫌で、早く帰りたい気持ちのほうが強かったのだと思います。結果、母が中心となって洋服を選び、僕たちは自分で服を選んでいる認識は薄いまま、歳を重ねることになりました。僕が大学生になってからも仕送りのダンボールの中に聞いたことのないブランドの服が入っていることは続きました。

今だってその傾向はあります。ご飯とかも昨日の残り物でいいやって思うタイプだし、自分が食べたいものよりも冷蔵庫の中を開けて、賞味期限が近い食べ物や多く買いすぎてしまった食材を使って料理をして食べるタイプです。

こういったところが、自分が自尊心の低いと思っている理由です。

 

ですが一応、自分で行きたい高校とか、自分はリハビリの仕事をしているのですが、そういったところは自分で決めてきたつもりです。少なくともリハビリの仕事に関しては親の誘導とかは無いです。ですが、「他の人があまりやらなそうな仕事」で選んだこともまた、事実だと思います。

 

自尊心が低く、「余りものでいいや」タイプの自分でしたが、勉強も嫌いでは無かったため、大学で留年することも無く、リハビリの国家試験も大丈夫でした。勤め先も決まりました。まあ、上司と合わなくて24歳の時に職場を変えたのですが、なんとかやっていました。

 

そこで転機がありました。といっても恋愛話なのでこんなこと書いて面白いのかなとも思うのですが。

 

2つ年上の方を好きになりました。

 

どうして好きなのかを書きます。当時、自分は仕事の技術もまだ未熟で、怒られる事も多く、メンタルも落ちていました。仕事から帰ってからもご飯を食べて寝るだけ、休日も体を動かす気力も無く、体重は増え続けました。そのうち、蕁麻疹になりました。初めは風呂上りなどの短い時間だけのもので、隠しながら働いていましたが、そのうちどんどんと昼間仕事中にも出るようになり、隠しきれなくなりました。自分は辛くても「大丈夫」と言ってしまうタイプで、蕁麻疹のことも隠しておきたくてよりストレスを抱えてしまい、負のスパイラルみたいでした。そんなこんなで、職場を変えました。

 

職場を変えた先で出会った女性がその方です。といっても一目ぼれとかではなく、当時メンタルが落ち込んでた自分は誰かに一目ぼれするほどの余裕は無かったです。仕事をしていきながらいつの間にか好きになっていました。

好きになったきっかけとか瞬間は特定が難しいのですが、例えば、その人は年上で、綺麗で、よく笑い、明るく、仕事もできて、プライベートでは趣味のサークルに入っていたりなど、つまり僕の場合は「自分に無いもの」を持っているところに惹かれるパターンだったのだと思います。僕は当時、メガネで太っていて、仕事もうまくいかず休みの日は家から一歩も出ない自分だったので、自分に無いものをまぶしく思ったのだと思います。

 

ええと、ここまで書くとその方を好きになったことが転機だと思われるかと思いますがごめんなさい。転機はその後です。

 

好きになって1年後、一緒に遊びに行くことができました。その日立ち寄った喫茶店でその方は、私のどこが好きなの。私は自分のことあんまり好きじゃないし。と話しました。

その言葉が今でも頭に残っています。別にドラマみたく、雷に打たれたような衝撃があったわけでもないです。ただなんとなく、家に帰って布団に入ってからも「あの時なんであんなことをあの人は言ったのだろう」と考えてしまいました。

今になって思うと、あの時自分は「何でも持っているように見えていたその人でもその人なりの悩みがあって、自己嫌悪と戦っている」ことを理解していなかったのだと思います。別の視点からいうのならば、劣等感が強い僕は、綺麗で憧れの女性を自分のものにすることで、劣等感から逃れたかっただけなのだと思います。

 

たぶんそれからでしょうか、自分は少しずつ、自分はどういう性格で、どんな欠点があって、何に自信が無いのかを考えたり、周りの方のことも見るようになっていきました。

 

その方とは結局結ばれませんでしたが、30歳になろうとしている今でもとても大切に思っています。さすがに6年も片思いしてると、その人が幸せならそれでいいと思えるようになっちゃいますね。

 

ごめんなさい。話しを戻します。

自分が言いたいことは「劣等感」と「成長」はつながっているものだということです。

僕が好きになった方は自己嫌悪を持ちながらも、明るく、優しい方です。仕事以外でも好きな音楽グループのライブに行ったり、旅行したり、ジムで体を鍛えたりしていました。その方がどんな内面を持っていたのかは最後まで聞けなかったけれど、自己嫌悪がありながらもいろんなことに挑戦する様は心の底から尊敬できるものでした。

その方を好きになってから、僕も自分が持つ自尊心の無さと少しずつ向き合うことが出来るようになりました。自分ひとりでいろんなところに外出するようになりました。好きなバンドのライブに行ったり、音楽フェスにいくようになりました。ひとりで夜行バスに乗って旅行に行ったり、舞台を見に行ったりできるようになりました。音楽もたくさん聴いて、新しいバンドをたくさん覚えました。自分が何を好きなのか、なんで好きなのか考えるようになりました。ついでに体重もそこそこ落ち、コンタクトにして、ファッション誌を読んで、自分が好きな服の勉強もしました。

僕は今でも「自分はたいした人間じゃない」と思っています。でもそれと同時に「好きな人に恥じない自分でいたい」「変わっていたい」「向上していたい」と思えるようになりました。劣等感をバネにするってそういうことではないかと思います。

 

この「成長していたい」という気持ちをこれからも大切にしていきたいです。

 

30代になるにあたって

「30越えたら人は変わらない」

誰かが言っていました。

僕がこれからなろうとしているのはその年齢です。

20代の頃は、周りの方もその人のことを変えてくれようと叱ったり、怒ったり、アドバイスしたりしてくれます。

でも、30を越えると「もういい年齢なんだし、自分のことは自分でやってね」といわんばかりに周りからのアドバイスが減るのだと思います。

10代20代の子でも、その本人に変わる気が無いと、どれだけ叱ってもなかなか変えることは難しいです。なおさら30、40、50代の変わる気の無い人は大変だと思います。

 

僕は「成長」ってそこらへんに転がってるもんだと思います。

新しい音楽聴くのも成長だし、同じ曲を何度もリピートして、口ずさめるようになるのも成長。ゲームで今まで倒したことの無いボスを倒すのも成長、ゲームの実績とかアチーブメントをとるのも成長。新しい場所に外出して景色を見て感動するのも成長。今まで行ったことのある場所に再度行ってみて、今と昔に思いをはせるのも成長。

もちろん、仕事で実績を残したり、結婚したり、目に見える大きな成果も大事だと思いますよ。でも、必ずしも全ての人が報われるわけではないから、だからこそ「成長のハードル」は高いものと低いものの2足のわらじを持つことが大事だと思います。

 

自分の大きな目標は「大切な人に良い影響を与えられる大人になる」

自分の小さな目標は「毎日ちょっとずつ成長する」

です。

 

30代もがんばります

 

明日は7月18日で僕の30歳の誕生日です。

7月18日は2年前に京都アニメーション火災、1年前は三浦春馬さんが自殺で亡くなっており、2年続けて厄日になっています。でも、悪いこともずっとは続かないことを信じて頑張りたいです。

 

大変なご時世ですが、みんなが平和に暮らせますように

29歳で亡くなった有名人を調べてみた

自分はもうすぐ30歳になります。人間生きていれば勝手に歳をとっていくものだし、生き続けていれば30になるのは当たり前、でも、中には30歳を向かえることなく亡くなった方も、もちろんたくさんいらっしゃいます。

 

29歳で亡くなった方を調べることで、無事に30歳になれることを前向きに考えられたらなと思い、調べました。

 

参考サイトは以下です

29歳で亡くなった人 - まいり

 

①全員は紹介できないので、自分が知っていたり、興味のある著名人をピックアップして書いています。

②亡くなったのが最近の方から書いていきます。

③各著名人について、wikipediaやネットからの情報を元に書きますが、間違ったことを書いてしまう場合もあります。

④その著名人に対する、僕個人の感想なども書いています。

 

以上を理解されたうえで、ご覧ください。

では、本編スタートです。

 

津野 米咲(つの まいさ、1991年10月2日 - 2020年10月18日

死因:自殺

ロックバンド「赤い公園」のギター・コーラスの方です。去年亡くなったばかりで、まだ1年と経っていません。彼女の特筆すべき点として、赤い公園のほとんどの楽曲の作詞作曲をしていました。赤い公園は彼女が亡くなった後、2021年5月28日にラストライブを行い、解散しています。

楽曲提供も数多くされています。SMAPの「JOY!!」、モーニング娘。16の「泡沫サタデーナイト、Buono!の「ソラシド~ねえねえ~」などが知名度の高い曲です。

 

バンドの中で、誰が欠けてももちろん嫌なものですが、作詞作曲をしている人が亡くなってしまうことはバンドにとってとても大きいものです。後でも書きますがフジファブリックというバンドの志村正彦も29歳で亡くなり、彼もまた作詞作曲を同バンドで行っていました。バンド「赤い公園」は解散し、「フジファブリック」は今も継続し、別のメンバーが作詞作曲を行っています。バンドを解散するのも、継続するのも、そのどちらにも苦悩があって、どちらが正解とかはないのだと思っています。

 

京都アニメーション火災で亡くなった方のうち2名

2019年7月18日に36人の死亡者を出した事件で、ご存知の方も多いと思います。その中にも29歳の方が2名いらっしゃったそうです。お二方の名前も調べると出てきますが、芸能人というよりは一般の方に当たると思ったので、当ブログでは名前は書きません。

 

チェ・ドンハ채동하、蔡 東河、1981年6月23日 - 2011年5月26日

死因:自殺

韓国のグループsg WANNA BE+エスジーワナビー)の元メンバー

で初代リーダーです。現在でも活動している音楽グループです。日本でも2006年~2012年くらいまでは東京などでライブを行っていたりと、ある程度の知名度はありましたが、現在はあまり名前を聞かなくなりました。

 

富澤 勝行(とみざわ かつゆき、1980年6月20日 - 2010年3月18日

死因:事故死(交通事故)

競輪選手。千葉県栄町にて大型トラックと衝突し、頭の骨を折るなどしておよそ3時間後に死亡。警察の調べによると、対向車線側の歩道を他の競輪選手5人と一緒に走行。その際に車道との間のポールに接触してバランスを崩し、前から来た大型トラックに衝突したと見られている。

 

志村 正彦(しむら まさひこ、1980年7月10日 - 2009年12月24日

死因:不詳(突然死、病死、過労死、自殺など諸説あり)

死因についてはさまざまな説があるため、ここではあまり触れません

バンド「フジファブリック」のメインボーカル・ギター、作詞作曲

PUFFY藤井フミヤに楽曲提供もしています。

 

フジファブリックは作詞作曲とメインボーカルを務めていた志村の変わりを別メンバーが行いながら、現在でも活動しています。バンドの知名度も高く、大阪城ホールなどでもライブを行えるくらいに成長しています。

 

この方が亡くなったときのことは覚えています。ちょうど自分が高校3年生の受験勉強をしていたクリスマスだったと思います。イブだったか、それともクリスマス当日だったかは忘れてしまいましたが、報道の第一報があったのが夕ご飯を食べている時間帯でした。音楽が好きで、ちょうどフジファブリックを中心にリピートで聞いていたので、まさか死ぬとは思ってなかったのでとても驚きました。大人になった今では「人はいつ死ぬか分からない」ということを知っていますが、当時高校3年生の僕は、人が急に死ぬことを理解していなかったのですね。だからこそ、今振り返ってもすごく驚いた経験でした。

 

小松 則幸(こまつ のりゆき、1979年4月21日 - 2009年4月13日

死因:事故死(水死・溺死)

プロボクサー。フライ級。OPBF東洋太平洋フライ級王者。

ボクシングといえばWBCWBAなどが有名ですが、この世界タイトルにも挑戦していた実力のあるボクサーのようです。亀田兄弟の次男、亀田大毅選手との試合を来月に控えていました。精神修行のために、京都市内の寺院から紹介を受けた滝を、トレーナーら計5人で訪問し、他4人は滝に近づかなかったが小松氏は他の方の制止を振り切り、服を脱いで滝に下りていったそうです。その後、なかなか帰って来ず、滝つぼで亡くなっているのが発見されました。誤って足をすべらせ、そのまま溺死したと考えられています。

 

川田 亜子(かわだ あこ、1979年1月17日 - 2008年5月25日

死因:練炭自殺

アナウンサー。

サタデースクランブル」「がっちりマンデー」「Goro‘s bar」などに出演。

亡くなる前に家族に自分が生きている意味を聞いていたりと、気分が落ち込んでいる様子だったそうです。自宅近くの駐車場の車内で練炭自殺で亡くなっています。

 

しんが ぎん1972年7月10日 - 2002年5月26日

死因:非公表

漫画家。「鬼がきたりて」「少年探偵Q」

似た名前の漫画に「探偵学園Q」がありますが、そちらとはまったくの別物です。連載作品はいずれも2巻までに打ち切りになっており、いわゆる売れない漫画家ではあります。ですが「るろうに剣心」のアシスタントをしていたり、「ワンピース」の尾田栄一郎とも仲が良かったそうです。死因は非公表ですが、拒食症だったという説もあります。詳細は不明です。

 

新山 志保(にいやま しほ、1970年3月21日 - 2000年2月7日

死因:病死(急性白血病

声優 「美少女戦士セーラームーンセーラースターズ」星野光 

   「CRAMP学園探偵団」鷹村蘇芳

   「ロードス島戦記ディードリット 他

セーラームーンの星野光としての曲「銀河一身分違いな片思い」も有名です。とても綺麗な歌声で、ボーイッシュな声質で綺麗な声だなと思いました。急性白血病には2種類あり、急性骨髄性白血病急性リンパ性白血病があるのですが、新山さんがどちらだったのかはネット上で調べても分かりませんでした。ですが新山さんのwikipediaには「夏頃に倒れ」とあることからその倒れた原因が貧血であれば、貧血→体内の赤血球の減少→骨髄の異常なので、骨髄性白血病なのでしょうか。もう少し、勉強してみます。

 

白血病といえば近年では水泳の池江璃花子選手が有名ですね。彼女は急性リンパ性白血病であることが知られています。今だからこそ回復事例が増えてきた白血病ですが、20年以上前である当時は白血病は今よりも未知な部分も多く、とても怖い思いをしたと思います。分からない病気に直面することは恐ろしいことだと思います。

 

村山 聖(むらやま さとし、1969年6月15日 - 1998年8月8日

死因:病死(癌)

将棋棋士 最高位:順位戦A級 竜王戦1組

将棋奨励会入会から2年11ヶ月でプロになっており、これは羽生善治よりも早いスピードだったそうです。また、村山さんは5歳の頃にネフローゼ症候群の診断を受けており、難病と戦いながら活躍したことでも知られます。羽入義治との戦績は6勝7敗でよきライバルでした。村山さんの生涯は「聖の青春」(さとしのせいしゅん)という名のノンフィクション小説にもなっており、これは2001年にスペシャルドラマとして放送され、さらには2016年には松山ケンイチ主演で映画化もされている。また、都市伝説だが藤井聡太氏が生まれたのが2002年7月19日と村山の死後だったため藤井聡太村山聖の生まれ変わりとする都市伝説もある。

 

村山さんは順位戦A級(将棋会のトップ11人に当たる)にまで登りつめますがネフローザの症状から脱力感、血尿などにより不調に、B級に降格してしまいます。さらにはその直後、27歳の時に進行性膀胱癌が見つかります。膀胱を摘出する手術を行うなど体力的にも厳しい中、将棋の試合も休むことなく戦い、A級に復帰する。しかし翌年春、癌の再発・転移が見つかり将棋を休戦し、療養に専念することを決める。同夏、死去。

 

将棋にあまり詳しくなく、間違った事実を書いていたらすみません。ですが、この記事を書いていて、とても勉強になった方です。村山さんの名前は初めて知りましたが「こんな方がいたんだな」って思いました。劇的な人生だなと思います。30歳も40歳も生きていたいと、そう願ったのではないかなと思います。

 

プラム麻里子(プラムまりこ、1967年11月1日 - 1997年8月16日

死因:事故死(試合中の事故死)

プロレスラー

日本で初めて、プロレスの試合中に亡くなった方です。技を受けた後、意識不明の重体になり、病院で開頭手術を行いました。手術は成功しましたが、その翌日容態が急変、亡くなりました。急性硬膜下血腫、脳挫傷でした。

 

プロレスの試合中の死亡はプロレスリング・ノア三沢光晴が有名かと思います。こういった事案を忘れずにいるからこそ、プロレスがより安全に、見ている側も楽しく見れるよう、選手たちの技量だったり、プロレスの道具だったり、医療体制が見直されてきたのだと思います。

 

以後、29歳で亡くなった歴史上の人物を何名か挙げていきます。どんな人物かなどの詳細は省略させていただきます。

 

新美 南吉(にいみ なんきち、1913年7月30日 - 1943年3月22日

死因:結核

小説家 「ごんぎつね」など

小林 多喜二(こばやし たきじ、1903年12月1日 - 1933年2月20日

死因:拷問死

小説家 「蟹工船」など

波多野 秋子(はたの あきこ、1894年10月1923年6月9日

死因:自殺(有島武郎と心中)

有島武郎(小説家で「カインの末裔」「或る女」が有名)の愛人

中岡 慎太郎(なかおか しんたろう、1838年5月6日1867年12月12日

死因:暗殺(近江屋事件で殺される)

幕末志士 坂本龍馬と一緒にいたところを襲撃されたといわれている

吉田 松陰(よしだ しょういん、1830年9月20日-1859年11月21日

死因:死罪による処刑死

武士、教育者 大老井伊直弼により老中暗殺計画の罪で死罪判決を受ける

浅井 長政(あざい ながまさ、1545年-1573年9月26日

死因:自害

戦国大名 信長の妹、お市の方を妻にもつ 同盟が決裂した織田軍に負け、自害する

親のことを好きになれない

少し、自分の話をします。

自分は僕、父、母、祖父、祖母の5人で暮らしています。

兼業農家の家で、家の土地の中に2つの家があって、大きいほうの家に僕と、祖父母の3人が、離れに父と母が住んでいます。家が2つあるからそれを分配して使っているだけで、5人の仲は悪くないと思います。

父と母が暮らしている家は、ごみ屋敷です。テレビで見るような、部屋中がゴミ袋で埋まっていたり、玄関からごみが飛び出しているわけではありません。外からの見栄えは悪くないのですが、いざ家の中に入ってみると、洗濯物はたたまずそこらへんにおいてあり、電気屋さんで買った家電のダンボールの箱がそこらへんにおいてあります。

1ヵ月半くらい前に、母はOAの手術で入院しました。OAとは変形性膝関節症という病気で、歩きすぎなどが原因で、膝が曲がってしまい、膝が伸ばせなくなってしまう病気です。ずっとがに股歩きしているイメージです。

母が入院したことを良いきっかけにしようと、僕は父と母に家を掃除しようと提案しました。僕は普段家族と話すとき、粗雑に話してしまいがちなのですが、そのときはなるべく丁寧に「俺も協力するから、やろう?」と話したつもりでした。でも、結局うまくいきませんでした。父、母両方に関してです。

掃除を断られたことは、決して予想外ではなかったです。ただ「そっか、そういう反応なんだ」と思っただけでした。

 

母は5~6年位前に、電車に乗って出かけたら、出かけ先で意識が薄れ、駅のベンチで少し休んだらなんとなく大丈夫になったので、そのまま普通に帰ってきたことがあったそうです。1度だけでなく、2度、似たようなことがあったようです。自分はその話を母から聞いたのはそれから3年くらい経ってから、去年か一昨年に聞きました。僕は母に脳神経内科のクリニックの人間ドックを受診させ、ラクナ梗塞が見つかりました。ラクナ梗塞は脳梗塞の一種で、小さな脳梗塞なので、身体機能障害などは表面化しませんが、れっきとした脳梗塞です。

 

今回、足がOAになったのも、足が悪くなっていながらも自分で勝手に病院に行き、医者に「今回は様子を見て、悪くなるようだったらまた来てください」とか言われたきり、放置していたように、母本人の話や、父の話を聞いて思います。結果母の足は重度のOAになり、手術が必要なレベルになりました。

 

 

自分の父と母は、自分のことは自分で勝手に決めてしまう人だと思ってます。ごみの家にしても、自分の体調不良を隠すことにしても、勝手に病院受診することにしても

 

そして今現在母はリハビリ病院に入院中ですが、「入院はお金がかかるから」という理由で、母と父だけで退院日を決めて、来週帰ってきます。僕の仕事がリハビリ職だから分かるのですが、退院の前に、リハビリの進行状況を説明したり、自宅での生活様式を確認したりなど、退院にも段取りのようなものがあるのですが、父と母はそういったものを全部飛ばすようです。

 

タイトルに戻ります。

自分は家も親も嫌いじゃないけど、好きにはなれないと思います。

親のこと分からないし、許せないと思います。

許せないといってもドラゴンボールで悟空が「許さねーぞ!フリーザぁぁぁ!」みたいな許せないではなくて、「人として合わない」という意味です。

 

「親のことを大事にしよう」とか「親孝行」とか「母の日」「父の日」とか、一般的に親は大事にするものなのかもしれない。でも、もう無理だなと思った。親だろうとなんだろうと、結局は他人なのだ。他人なのだから、合わないところは合わないし、変えようたって変わらない。

たぶんましなほうの親なのだろうと思う。犯罪暦も無いだろうし、夫婦仲だって悪くない。でも、もし将来誰かと結婚しても、親のことを結婚式に呼びたくないって思うくらいに親が好きじゃない。親とお嫁さんを一緒に住まわすなんてもっての他だ。

自分は、かわいくない子どもになってしまうのだと思う。

 

 

ただ、生んでくれたこと、育ててくれたことへの感謝はしていたいなと思う。好きにはなれないけれど、感謝の気持ちは確かにある。2人が出会って結婚してセックスしてくれたから僕が生まれたのだ。そして、虐待もせず、ネグレクトもせず、大学にまで行かせてくれている。

よく「感謝しかありません」みたいに言う人があるが、あれとは違う。感謝以外にもいっぱいの感情が親に対してある。感謝以外の感情はネガティブなものばかりだけど、でも、親に感謝の念はあることをこれからも忘れない。

 

親のことを好きになれず、尊敬もできないけれど、嫌いになりたくてもなかなかなれないし、生んでくれた感謝はあるから、うまく折り合いをつけて生きていたいな、っていうお話でした。

 

 

北村薫 空飛ぶ馬 赤頭巾 感想 ネタバレあり

※以下ネタバレあり

 

早速ですが、前回の「胡桃の中の鳥」の記事のなかで、僕はあれこれと考察していましたが、ものの見事に外れてしまいました。お母さんは崖下に飛び込むことなく、子どもと再会できたそうです。ドンマイ、自分(笑)。

 

では、今回は胡桃の中の鳥の次のお話「赤頭巾」です。

 

要点まとめ

主人公には小さい頃にたまたま出会った近所の綺麗なお姉さんがいて、ひそかに憧れの存在だった。ある日主人公が歯医者に行くと、「ほくろさん」という中年女性と出会う。その方は主人公の憧れのお姉さんと同級生で中学、高校、そしてお互いが子どもを持つようになった今でも関わりがあるという。憧れのお姉さんは「夕美子さん」という。夕美子さんは結婚して一度は故郷であるこの町を離れたが、やがて離婚し、現在はこの町に戻ってきており、子どもと二人で暮らしている。前夫からの養育費のほか、自身は会社員をしたり、絵本を出版して生計をたてているらしい。ほくろさんはいわゆる話し好きで、ぐいぐいくるタイプの中年女性である。ほくろさんがある日、子どもも祖父に預け、旦那も仕事で帰りが遅い日だったため、夕美子さんの家にアポなしでお邪魔し、雑談などしていた。すると夕美子さんの家の電話がなり、夕美子さんが電話をとる。「はい、いらしてますよ」ほくろさんの旦那さんからの電話だった。夕美子さんは独り言のように「赤頭巾は今日は無理そう。」「最近日曜日ごとに赤頭巾がでる」と続ける。ほくろさんが赤頭巾のことを夕美子さんに尋ねると、日曜日の9時ごろに赤いものを身につけた女の子が夕美子さんの家の前の公園に現れるらしい。ほくろさんがその時間に公園をみてみると赤いレインコートを着た女の子が立っていた。その話しを聞いた主人公は後日、円紫さんになぜその女の子は何者なのか問う。円紫さんの推理は、夕美子さんとほくろさんの旦那さんは不倫関係にあり、日曜日の夜に会っているのではないか。旦那さんはほくろさんに電話をかけたのではなく、夕美子さんに電話をかけた。夕美子さんはごまかすために赤頭巾の話をとっさに出し、自分の子どもに赤いレインコートを着せ、公園に送り出した。

 

感想

空飛ぶ馬は1989年出版であり、当時は携帯電話も普及していなかった。だからこその話しだと思う。他にも現代では聞きなれないことばがある。なかでも僕が印象的だったのは「午前様」だ。

午前様の意味は

午前様とは、深夜を過ぎて(つまり翌日の午前中に)帰宅する人をいう。

https://www.waraerujd.com/blank-772#:~:text=%E5%8D%88%E5%89%8D%E6%A7%98%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E6%B7%B1%E5%A4%9C,%EF%BC%89%E3%80%8D%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%98%E3%81%A3%E3%81%9F%E4%BF%97%E8%AA%9E%E3%80%82

ほくろさんの旦那は日曜日も仕事の人で、しかも日曜日は午前様だという。そこから今回の話の推理にも結びついているため、重要なワードだと思う。小説を読む上で、面倒でも大事なワードは調べないといけないこともある。でも、やっぱり面倒くさい(笑)

 

本題の今回の話に対する自分の感想は

気持ちわるい話しなのに、どこか納得してしまうような、気持ち悪いのに理屈は通っているような話しだなーって思う。

この話しで印象的なセリフは小説版273ページ「知で情を抑えることはできるのに、その逆は出来ないのです。」の部分だろう。逆、ということはこの文を‘逆‘にしてみると

 

「情で知を抑えることはできない」

となる。この解釈が難しい。理屈がちな人は、理屈がないと前に進めない、ということだろうか。

夕美子さんも、ほくろさんの旦那さんもものすごく「理屈」っぽい人なんだと思う。だからこそ、夕美子さんの描いた「赤頭巾」は怖いくらいに狼に向かっていく。夕美子さんの赤頭巾は狼を手玉に取ったようだ。

 

主人公は不倫関係にあるこの2人を「美しくない」といった。

円紫さんは2人のことに対してはなにも言ってはいないが、夕美子さんの「赤頭巾」にたいして「ここまで挑発するのなら赤頭巾は食べられても仕方が無い」といった(文庫274ページ)

夕美子さんは自身を、あるいは自身の娘を赤頭巾に投影している。ほくろさんの旦那さんは深い緑のネクタイをしていた。これは赤頭巾をより目立たせる深い森を表しているのだろう。

 

自分も主人公や円紫さんと同じ感想を抱いた。この2人は美しくない。不倫がダメとかそういうレベルではない気がする。心の奥底で人を下に見ていそうなところとか、すべてを理屈でつなげてしまうようなところとかだろうか。とにかくなにかが嫌で嫌でしょうがない。「じゃあどんな関係が美しいのか」と聞かれてもわからないし、美しさを探しているわけでもないけれど、ただ自分の中で「こうなりたくない」と思っているのだと思う。それはきっと主人公も同じで「こうなりたくない」と直感的に思うから、最後の旦那さんのことを恐れ、緑のネクタイが印象的に書かれているのではないだろうか。

 

恋愛は難しいことだらけだけれど、夕美子さんとほくろさんの旦那さんの恋愛はきっと寂しいと思う。円紫さんのいうように寂しいことを意識すると余計寂しくなると思う(文庫281ページ)。たしかにこの2人は理屈で考えるタイプだし、寂しさに負けてしまうことは無いと思う。でも、それでも、この2人は寂しさを感じずにいられない日があるのではないだろうか。

 

恋愛はきっと寂しさをなくすためにするものではないのだと思う。寂しさをなくすために恋愛したとしても、きっといつか、寂しさを意識せざるを得ない日がきてしまう気がする。

 

先日たまたま目に留まったネットの記事に「結婚を決めた要因」があった。その記事によると結婚の決め手は「相手とずっと一緒にいたいと思ったから」だそうだ。

 

「ひとりでは寂しいから結婚する」と「ずっと一緒にいたいから結婚する」

両者は似ている表現だが、きっと目的が違うのだ。

前者は「寂しさからの脱却」

後者は「

・・・・・なんだろう思いつかない。

 

自分自身への宿題にします。

 

北村薫「赤頭巾」はとてもとてもおもしろく、僕につきささるお話しでした。

北村薫 空飛ぶ馬 胡桃の中の鳥 感想 ネタバレあり

※以下ネタバレあり

 

北村薫の円紫さんと私シリーズの第一作である「空飛ぶ馬」、短編の集まりで構成されている。その中でも3つ目のお話「胡桃(くるみ)の中の鳥」の感想を書く。

 

この話しは後半に一気に話しが進むが、その時の話の流れが分かりにくい(僕の読解力がないだけかもしれないが)、それにあたってタナカミホさんの漫画が分かりやすかったので僕と同じように話しについていけなくなった方は見ていただけたらなと思う。https://twitter.com/tanakatta/status/1237959487039758337

 

 

話しの要点まとめ

主人公は友達である正ちゃんと旅行に行く。行き先は蔵王で、温泉街では円紫さんの落語も聴き、蔵王をハイキングもする予定だ。旅先の旅館では小さな子どもとの出会いもあった。現地近くに住む別の友達、江美ちゃんとも合流し蔵王のお釜を観光する。友達の江美ちゃんが乗ってきた車の鍵をかけるのを忘れてきたばかりか、車の窓まで開けっ放しだという、急ぎ足で車に戻ると、幸いにも車は盗難されることなく元の場所に置いてある。だがよくよく近寄ってみると車の座席のカバーが前後列どちらも取られている。みたところ他に盗られた物はなさそうだ。主人公は円紫さんにどう思うか問うと、円紫さんの推理は子どもの保護者が自分の車と車種も色も同じである江美ちゃんの車のカバーだけを取り、それを子どもにいつもの車だと嘘をつき、「ここで待っていてね」と告げ、子どもを置いたまま離れた。だが子どもも時期にその異変に気づき、自分から車を出たのではないか。という話しだった。そこまでするお母さんにはきっと何か事情があるに違いないと周囲を探す一同、その後売店の近くで子どもは保護できたが、お母さんは見つからない。「運がよかったら、またお母さんと会うことができる」そう円紫さんは言い、話の幕が下りる。

 

 

以下感想

僕が感想として書き残したいのはこの物語で出てくるお母さんはどのような人で、どんな気持ちなのだろうということだ。この話しの終わり方は「この後どうなったんだろう」と読者に思わせてくれる終わり方だ。僕の考えも交えながら、話したい。

 

まず、この後お母さんは自分の車に乗って、自殺をしたのだろうか、それとも子どもを置いてきたことを後悔し、自殺を踏みとどまったのかどちらだろうか。北村先生はそういったところも読者の想像に任せる余地を残してくれているのだと思う。

 

僕は、お母さんは自分の車ごとどこか崖の下へ落ち、自殺を図ったのだと思う。このお母さんは(文庫版212ページ8行目)「たまたま同じ車種の~」と円紫さんがいうようにわざわざ手の込んだことをしてまで子どもを主人公たちの車の中に残した。それはお母さん自身が主人公たちのことを「安全な人」とはっきりと認識したうえでの行動だと思う。だとしたらお母さんは後悔などしないのではないだろうか。「あの女の子たちに我が子を見つけてもらえれば、きっと悪いようにはしないだろう」と考えたのではないだろうか。だとしたらお母さんはこのあと、崖の下へ飛べると思う。

 

お母さんはどんな人なのだろう。どんな境遇の人なのだろう。

 

この話しのいたるところで「女」というものがどういう見られ方をしているか、という話題が多くある。「百人坊主」では女は死んだ主人を思って丸坊主になるし、主人公は友達の正ちゃんの裸の後姿を見て自分の女としての魅力の低さを後ろめたく思う。そして旅館の中で主人公たち3人で「女の幸せ」を語り合う。印象的なセリフは「世の中の人は、男のペダンティスムは許してくれる。老人の醜さを許すように。でも女にはそのどっちも許さない」とある。

 

今日ではあまり聞き慣れない「ペダンティスム」。その意味は

ペダンティズム・・・衒学趣味(げんがくしゅみ)。 知識をいたずらにひけらかしたり、その態度が傲慢であったりする事。

だそうだ。

 

この「胡桃の中の鳥」のなかで好きな場面は文庫版189ページの、主人公と正ちゃんのシーン。主人公は運動が苦手でハイキングで正ちゃんにペースで劣ってしまう。他の人が相手だったら相手に気を使って少しでも早く追いつこうとしてしまうところだけど、正ちゃん相手だったら別に無理する気にならない。なんとなくお互い様といった気分になってしまう。というシーン。

 

この「お互い様」の気分って凄く貴重なものだと僕は思う。「鈍感」とはまた違う感情だと思う。なんていうか、鈍感は相手に迷惑をかけてしまっていることにすら気づかないけど、「お互い様」は相手に迷惑をかけているのを分かった上で、お互いに許しあえていることを言うのだと思う。

 

この物語にでてくるお母さんはこの「お互い様」の関係には無かったのではないだろうか。「空飛ぶ馬」が出版されたのは1989年らしい。その頃には「共働き」の家庭は今よりも少なかっただろうし、「イクメン」やら「男の育休」なんて言葉もない時代。お互い様でいられる相手がいれば、きっとこんな事件は起こらなかったのかもしれない。

 

でも、崖下に飛び込んだお母さんは生きていると思う。この話しの最後、文庫版215ページに円紫さんは「僕はこの子の運を信じてあげていいような気がします」と読者に希望を持たせる書き方をしている。僕はその運は崖下に飛び込んでも奇跡的に生きていてくれることを期待する。実際、崖の下に車で落ちても、スピードが弱く崖下にゴロゴロと転がったおかげで衝撃が和らぎ一命をとりとめたケースがアンビリーバボーでやっていたらしいし、グリザイアの果実というゲームの話しでも崖下にバスごと落ちて助かっている。この話しも海外の出来事が元ネタだときく。

 

この子の持っている運を信じ、お母さんが生きていて欲しいと願う

 

最後は落語「大山詣り」「百人坊主」より

 

お毛が(怪我)なくっておめでたい

2021年オリンピック

2020年3月24日夜、2020年東京オリンピックの一年程度の延期がニュースになった。理由はコロナウイルスによる影響だ。

 

政府の判断は正しいものであると思う。一ヶ月前までは米国や欧州ではコロナウイルスはまだ少なく、日本でできない時はイギリスのロンドンでやろうとイギリスの役人が言っているくらいだった。それが今ではイタリア、フランス、スペインをはじめたくさんの国で広がっている。オリンピック延期を決めるにあたって、今の時期にその決断ができるのは対応の速さとして十分だと思う。

 

だから、政府の判断が間違っていると言いたいわけではないです。という前置きから、本題に入ります。

 

 

2020年オリンピックが開催されなくて悲しいし、悔しい。

 

みんな何年も前から準備してきたものだし、だからこそ、悔しいなと思う。僕は別にオリンピックやスポーツに関わる仕事をしているわけではないのだけれど、そう思う。きっと関わっている人たちはもっと悔しいと思う。

 

人間、なにか目標を持ったとき、それに向かうためのピークがあると思う。分かりやすい例がオリンピックだ。やっとのことでオリンピックの切符を手にした人たちは2020年の夏に自分のピークを持ってくる。身体的なコンディションはもちろんだがそれだけじゃない、精神的なピークも2020年の夏にもってくるのだ。

 

このピークの話しは別にスポーツに限らない。仕事も勉強も、恋愛だってそうだと思う。仕事の大事なプレゼンの日に向かってピークを作るし、センター試験当日に向けてピークを作るし、大事な人へプロポーズするためにピークを作る。

 

こういったピークを外部の影響で、阻まれてしまうことはとても辛い。しんどい。

 

最近の例だと眞子様と小室さんの婚約のニュースだろうか。二人で準備してきたはずの結婚が、形となろうとしているところに小室さんの母の金銭問題が判明。メディアに取り上げられるなど、さまざまにあって今日に至る。結婚に向かうピークは阻まれ、もうあれから何年何ヶ月経ってしまったのだろう。二人のピークを思いもよらないところから阻まれてしまうのはきっと本人たちにとって辛いことだろう。

 

きっと2020年の夏を目標に、ピークを作っていた選手はたくさんいる。一年間の延期の影響は選手たちにとって大きい。ここからまた気持ちを切り替えて2021年夏にピークをもってくることができる人はどれだけいるのだろう。人間ってそこまで強くできてるのかな。

 

2020年オリンピックから2021年オリンピックに変わるに当たって、その一年間を埋めるために必要なものは努力だと思う。一年間の延期でも腐らない精神力、一度崩されたピークをもう一度作り直す。これは才能ではなく、努力でしか成り得ない。

 

2020年オリンピックが延期になってしまって悔しい。でもその分、来年見ることのできるオリンピック選手たちは延期された一年間分まで努力した選手たちだと思う。

 

2021年のオリンピックが無事に開催されることを心より祈っています。