北村薫 空飛ぶ馬 胡桃の中の鳥 感想 ネタバレあり

※以下ネタバレあり

 

北村薫の円紫さんと私シリーズの第一作である「空飛ぶ馬」、短編の集まりで構成されている。その中でも3つ目のお話「胡桃(くるみ)の中の鳥」の感想を書く。

 

この話しは後半に一気に話しが進むが、その時の話の流れが分かりにくい(僕の読解力がないだけかもしれないが)、それにあたってタナカミホさんの漫画が分かりやすかったので僕と同じように話しについていけなくなった方は見ていただけたらなと思う。https://twitter.com/tanakatta/status/1237959487039758337

 

 

話しの要点まとめ

主人公は友達である正ちゃんと旅行に行く。行き先は蔵王で、温泉街では円紫さんの落語も聴き、蔵王をハイキングもする予定だ。旅先の旅館では小さな子どもとの出会いもあった。現地近くに住む別の友達、江美ちゃんとも合流し蔵王のお釜を観光する。友達の江美ちゃんが乗ってきた車の鍵をかけるのを忘れてきたばかりか、車の窓まで開けっ放しだという、急ぎ足で車に戻ると、幸いにも車は盗難されることなく元の場所に置いてある。だがよくよく近寄ってみると車の座席のカバーが前後列どちらも取られている。みたところ他に盗られた物はなさそうだ。主人公は円紫さんにどう思うか問うと、円紫さんの推理は子どもの保護者が自分の車と車種も色も同じである江美ちゃんの車のカバーだけを取り、それを子どもにいつもの車だと嘘をつき、「ここで待っていてね」と告げ、子どもを置いたまま離れた。だが子どもも時期にその異変に気づき、自分から車を出たのではないか。という話しだった。そこまでするお母さんにはきっと何か事情があるに違いないと周囲を探す一同、その後売店の近くで子どもは保護できたが、お母さんは見つからない。「運がよかったら、またお母さんと会うことができる」そう円紫さんは言い、話の幕が下りる。

 

 

以下感想

僕が感想として書き残したいのはこの物語で出てくるお母さんはどのような人で、どんな気持ちなのだろうということだ。この話しの終わり方は「この後どうなったんだろう」と読者に思わせてくれる終わり方だ。僕の考えも交えながら、話したい。

 

まず、この後お母さんは自分の車に乗って、自殺をしたのだろうか、それとも子どもを置いてきたことを後悔し、自殺を踏みとどまったのかどちらだろうか。北村先生はそういったところも読者の想像に任せる余地を残してくれているのだと思う。

 

僕は、お母さんは自分の車ごとどこか崖の下へ落ち、自殺を図ったのだと思う。このお母さんは(文庫版212ページ8行目)「たまたま同じ車種の~」と円紫さんがいうようにわざわざ手の込んだことをしてまで子どもを主人公たちの車の中に残した。それはお母さん自身が主人公たちのことを「安全な人」とはっきりと認識したうえでの行動だと思う。だとしたらお母さんは後悔などしないのではないだろうか。「あの女の子たちに我が子を見つけてもらえれば、きっと悪いようにはしないだろう」と考えたのではないだろうか。だとしたらお母さんはこのあと、崖の下へ飛べると思う。

 

お母さんはどんな人なのだろう。どんな境遇の人なのだろう。

 

この話しのいたるところで「女」というものがどういう見られ方をしているか、という話題が多くある。「百人坊主」では女は死んだ主人を思って丸坊主になるし、主人公は友達の正ちゃんの裸の後姿を見て自分の女としての魅力の低さを後ろめたく思う。そして旅館の中で主人公たち3人で「女の幸せ」を語り合う。印象的なセリフは「世の中の人は、男のペダンティスムは許してくれる。老人の醜さを許すように。でも女にはそのどっちも許さない」とある。

 

今日ではあまり聞き慣れない「ペダンティスム」。その意味は

ペダンティズム・・・衒学趣味(げんがくしゅみ)。 知識をいたずらにひけらかしたり、その態度が傲慢であったりする事。

だそうだ。

 

この「胡桃の中の鳥」のなかで好きな場面は文庫版189ページの、主人公と正ちゃんのシーン。主人公は運動が苦手でハイキングで正ちゃんにペースで劣ってしまう。他の人が相手だったら相手に気を使って少しでも早く追いつこうとしてしまうところだけど、正ちゃん相手だったら別に無理する気にならない。なんとなくお互い様といった気分になってしまう。というシーン。

 

この「お互い様」の気分って凄く貴重なものだと僕は思う。「鈍感」とはまた違う感情だと思う。なんていうか、鈍感は相手に迷惑をかけてしまっていることにすら気づかないけど、「お互い様」は相手に迷惑をかけているのを分かった上で、お互いに許しあえていることを言うのだと思う。

 

この物語にでてくるお母さんはこの「お互い様」の関係には無かったのではないだろうか。「空飛ぶ馬」が出版されたのは1989年らしい。その頃には「共働き」の家庭は今よりも少なかっただろうし、「イクメン」やら「男の育休」なんて言葉もない時代。お互い様でいられる相手がいれば、きっとこんな事件は起こらなかったのかもしれない。

 

でも、崖下に飛び込んだお母さんは生きていると思う。この話しの最後、文庫版215ページに円紫さんは「僕はこの子の運を信じてあげていいような気がします」と読者に希望を持たせる書き方をしている。僕はその運は崖下に飛び込んでも奇跡的に生きていてくれることを期待する。実際、崖の下に車で落ちても、スピードが弱く崖下にゴロゴロと転がったおかげで衝撃が和らぎ一命をとりとめたケースがアンビリーバボーでやっていたらしいし、グリザイアの果実というゲームの話しでも崖下にバスごと落ちて助かっている。この話しも海外の出来事が元ネタだときく。

 

この子の持っている運を信じ、お母さんが生きていて欲しいと願う

 

最後は落語「大山詣り」「百人坊主」より

 

お毛が(怪我)なくっておめでたい